「手帳の学校」講師はなぜ二人なのか
今回も「手帳の学校」についてです。
表題の件ですが、これは次のことにつきます。すなわち
私自身が手帳に関する唯一絶対の解を用意すべきではないと考えるからです。参加者のみなさまそれぞれが、ご自分にあった手帳術を見つける一助になればと考えています。
お二人にお願いするのは、それぞれが手帳に関する一般的な使い方、考え方に関する著書を書いておられ、それを講義していただけることが大きな理由です。
おそらくお二人の手帳に関するアプローチは、それぞれの個性を反映したものだと考えます。それはお二人のそれぞれの著書からも伝わってきます。そして、このお二人が“特定の手帳に依存しない手帳術”という視点でどのようなことを語っていただけるのかとても興味があります。
お二人の語ることの共通点と相違点はそれぞれなんなのか。私自身も一受講者としてとても楽しみにしています。
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コメント
hikawさん
講義内容については追って公開していくつもりです。準備中なのでお待ちください。
また、今回の「手帳の学校」が既存の学校といろいろな点で違っていいとも考えております。
普遍的というのは、“特定の手帳の形式に依存しない手帳のあり方”という程度の意味で使ったのですが、ちょっと言葉が足らなかったかもしれません。決してアイロニーをこめたわけではありません。
コメントありがとうございました。
投稿: 館神龍彦 | 2009/06/09 22:28
学校という言葉を聞いて、長年大学教育にかかわってきて思うのですが、教えることへの責任、つまり、「手帳の学校」で教えることに関するシラバスの公表はどうしてされていないのでしょうか。
また普遍的な手帳の書きかたという表現にも不適切さを感じますし、その普遍的な手帳の書き方を講師するという表現にもアイロニーを感じます。不偏性があるならば、それは社会において常態化されているものであり、誰かにおそわるようなたぐいのものではないはずです。同時に不偏性のあるものに対して誰かが講義をおこなうという偏差値的な価値観というか序列化も不思議なものですね。
投稿: hikaw | 2009/06/08 11:15